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零私記

狼逃苦肉の策でブログになった

昔このサイトの趣味欄に、辞書を読む事、と書いた事がある

A「……、何してるんですか?」

B「何って読んでるに決まってるだろう。
  本屋に来てする事と言えば、購入か品定めか探し物か、立ち読みだ。
  まぁ、最後のそれは犯罪になるかもしれんがな」

A「いや、そうではなく…。 なぜゆえそのような分厚い辞書を読んでらっしゃるんですか」

B「あ、お前、辞書と辞典の違いを知ってるか?
  辞典ってのは単なる辞書の言い換えだそうだ。
  明治以降から流行った呼び方らしいぞ。 ってこの辞典には書いてある。
  ついでに、辞典と事典の違いもわかるか? この場合、辞典は辞書の事だが。
  あぁ、会話じゃ分かりにくいな、それぞれことば典、こと典って言い分けるらしいな。
  で、違いはな、事典が専門書で、辞典が説明書って感じだ。
  例としちゃあ、百科事典と国語辞典だな。 ってこの辞典には書いてある」

A「はぁ…」

B「しかしあれだな、俺みたいに辞書好きにはわかるが、改訂のたびに中身が変わる。
  意味が変わったり、言葉が消えたり、増えたり。
  いや、時代と共に変遷していくのは仕方ないさ。
  現代人が古典の言葉で話してないように、言葉ってのは移ろいゆく物だ。
  若者の言葉が乱れてる、なんて言ってる奴は単なるバカだ。
  しかし古典を習っているのもまた事実だ。 どっちがどうってのは学会でも分かれてる。
  まぁいい。 だがな、俺は時々悲しくなるのさ。 辞書から言葉が消えていくのがな。
  辞書から言葉が消えた所で、その言葉が世界から消えるわけじゃない。
  本気の専門書や学者の脳には残ってるわけだからな。
  しかしだ、実際に言葉を使い広めていくのは一般人なわけだ。
  一部の学者が使いもしないでプールしたところで、最早それは言葉の意味を成していない。
  そして、一般人にとって辞書ってのは最後の砦なのさ。
  意味が分からなければ調べる。 そうやってまた世界に流れ出す。
  しかし、辞書から言葉が消えたら、どうやって調べる。 もう2度とこの世に現れなくなる。
  だから辞書は、一般人にとって言葉の最終防衛ラインなんだ。
  辞書から消えたら、やはり消えてしまう運命なわけだ」

A「でも、それはあなたの話であって、元からその言葉の無い新人類には関係ない話でしょう」

B「確かに、正論だ。 今も古典のいくつかは失われてるだろうが、俺はまったく悲しくない」

A「おいおい…。 さっきまでのは何だよ…」

B「あれは単なる、本能みたいなもん、なのかもしれんな。
  人ってのは幸せであるために、不幸にならないために、現状維持を望む。
  言葉の保存を望むのも、もしかしたらそれが理由かもしれない。
  それに、失われたら2度と戻らない、っていう日本人の勿体無い精神なのかもしれん。
  言葉は人間の道具ではあるが、言葉に対して人間は、単なる傍観者に過ぎんのかもな」

A「あ、そろそろ行かないと遅れますよ」

B「ん? おう、そうだな。 上司命令だし、会社に迷惑がかかるな」

A「んじゃ、行きましょうか、敬語セミナー」


何かオチが私らしくない、って気がします。 いや、違うんです。
思いつかなかった、が本音ですが、これはこれでまとまっているんです、きっと。
言語学はサワリだけ1年間勉強したので、多少の事は語れますが。
言いたかったのは、私が辞書好き、っていうそれだけ。

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